耳が聞こえないだけでなかった
ガンマナイフ の術後、順調に縮小傾向にある左耳の聴神経腫瘍の経過観察のために半年ごとのMRI撮影を行ってきました。
聴神経腫瘍ガンマナイフ の術後観察で見つかった腫瘍
しかし、京都に帰ってきてから初めて「耳神経以外の部分に腫瘍」があることが判明しました。
聴神経腫瘍は、初期の段階から良性のものであると言われており、とってしまえば問題ないと言われていたことから自分自身、驚くほど恐怖心を抱きませんでした。ただただ、片方が聞こえなくなることを悲しむ日々でした。
今回見つかったのは正反対の右の脳で、海馬とよばれる部分のそばでした。この辺りを切除すると、地図が読めなくなるなどの障害がでるとの事でしたが、それ以上に問題なのは「浸透するように進行する」ということでした。
グリオーマという名の腫瘍
医師いわく、スポンジに浸透するように広がるタイプの悪性腫瘍である可能性が高いとの事でした。つまり、切除してもどこまで転移しているか判然としないため追いかけ続けて行くしかない、つまり脳をどこまでも切除していくしかないとのこと。
最悪の場合は余命3ヶ月となることがある。
心身ともに打ち砕かれました。
3ヶ月、約90日間でなにができるのでしょう?
生まれてくる第2子の顔を見ることもなく、仕事も転職して間もない頃でもありました。
なんとか先進医療を探そうと、「グリオーマ」という文字を検索します。
そこには、悲しい現実しかありませんでした。
5年生存率という言葉
このブログをご覧になっている方はガンについても知識をお持ちでしょう。
ガンは、進行度によって「ステージ」という表現を使い、1から4まで区分されています。わたしの場合、ステージ4ならあと3ヶ月の命という宣告だったということがネットで学んだことです。
さまざまな手術について説明があるものの、どれも「5年生存率◯%」という表現になっています。
たとえば、「5年生存率80%」というのは、「この手術をした人が5年以上生きた確率」という意味で、つづいて「10年生存率20%」とあれば、5年以上10年未満で80%の人が亡くなったということになります。
どのような手術を受けても、到底50才になることはできそうにありません。
織田信長の舞を想像する
織田信長が活躍した戦国時代、日本人の平均寿命は50才あたりだったようです。かの織田信長は気分が良いと敦盛の舞を踊ったと言われていますが、そのなかに「人生50年…」というくだりがあります。
織田信長ですら50才で人生が終わると考えて生きてきたのです。
余命宣告を受けたとき、わたしは40代に入ったばかりでしたが、50才にもなれずどんな人生を歩んできたのだろうと振り返ることとなりました。
好きな家族、好きな歌、好きな場所…いろいろ考えてみましたが、やはりどれもこれから未来があり、もっと量も質も増してゆくとしか考えられない。
でも、医師の見立てでは長くても3年といった様子でした。
途方に暮れるしかありませんでした。
その後、診断は右往左往し始める
グリオーマの摘出手術を開頭で行うことを決め、わたしは職場に迷惑をかけることを詫びつつ、10日間の検査入院をすることとなりました。
幼い上の子と身重の妻が見舞いに毎日きてくれます。本人は痛くも痒くもなく、全く自覚症状がないまま、毎日の検査を黙々とこなすだけ。
いよいよ検査入院が終わろうとする9日目、医師から話がありました。
もしかしたら、グリオーマではなく、過去に頭を打った軽い脳挫傷の可能性がある。そうなると、今や全く問題もなく、直す必要もない。ましてや開頭するリスクの方が多大であり、病院側としても無意味な負担を患者に与えるとなるとコンプライアンスの問題に発展しかねない、と。
最終的には、脳挫傷のあとなのか、やはりグリオーマなのかは開頭して検体を取らなければわかることはない。
そして医師は「どうなさいますか」と丸投げしてきました。
もちろん、病院側としては本人の意思で手術を取りやめる方向で回答して欲しいのです。
わたしは、病院側の意図に沿うことが悔しいものの、脳挫傷のあとである方に賭けました。開頭手術は行わず、いつまで生きながらえるか、運命との勝負に出たのです。
グリオーマか、脳挫傷の後か
わたしは小学生の時、兄の自転車の後ろに乗って車にはねられたことがあります。当時はまだ自転車の2人乗りは当たり前の昭和の時代の話です。すぐ近くの警察署から警官が走って迎えにきて、そのままわたしをおんぶしたまま病院に運んでくれたそうですが、頭を打って脳震盪(のうしんとう)を起こしていた、つまり気を失っていたので記憶はありません。
気づいたときはすでに手術台の上で、裂けた右足の皮膚の縫合中でした。このとき、車は左から当たっており、わたしは右側に転倒したようです。
つまり、今回見つかったグリオーマか脳挫傷の後かの方、ということになります。
数年にわたってMRI検査を受けて、ほぼ大きさの変わらない腫瘍をわたしは祈る思いで「脳挫傷の後に違いない」と思うことにしました。
そして、いま
余命宣告を受けてから7年が経過しようとしています。嬉しいことに、まもなく50才を迎えようとしているのです。
正直、ときどき左手の感覚が無くなったり握力がなくなることがあります。
しかし、これは年齢を重ねたためと思い込んでしまおうと思っています。
何より、下の子も無事にすくすく育って、本当に幸せな毎日を過ごしています。詳しく知っている家内も口には出さないながらもときどきは不安になっているのではないかと想像しています。
ありがとうという思いが家族に向かいます。まだ生きていられているという喜びと共に。
(追記)そして後日、左手の麻痺の理由を思い知ることになりました。